小 田 原 城
要害の地に築かれた後北条氏5代にわたる大城郭
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| 復元天守 |
| 歴 史 | 小田原城は鎌倉時代初期に土肥一族の小早川氏が館を 築いたのが始まりという。室町時代の応永24年(1417)駿河国に身を起こした大森頼春が小早川氏を追放して小田原に入部し、この頃、山城を築いて小田原・箱根・足柄地方に君臨した。時代は下って明応4年(1495)駿河今川氏の客将から身を起こし、韮山城を拠点に伊豆一国を支配していた伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)は関東進出を志し、謀略をもって小田原城を夜襲、時の城主大森藤頼を追放して小田原城を奪取。 以後、伊勢長氏の嫡子氏綱から北条氏を名乗るが、鎌倉時代の執権北条氏と区別するため北条早雲を祖とする北条氏を後北条氏と呼ぶ。 明応4年(1495)から北条氏5代95年にわたり、関東支 配の拠点として小田原城の整備、拡張を続ける。この間、永禄4年(1561)には長尾景虎(後の上杉謙信)、永禄12年(1569)には武田信玄の攻撃を受けるが、籠城戦で守りきる。その後、天下統一を目指す豊臣秀吉の攻撃に備え、天正15年(1587)から3年余の歳月をかけて、小田原城は城下の町並みや農村までを取り込んだ周囲約9kmにわたる外郭(総構え)をもつ巨大な大城郭となった。 天正18年(1590)3月、豊臣秀吉は水陸合わせて21万余にも及ぶ大軍を率いて小田原城を包囲。これに対して 北条氏は大城郭の堅塁を頼んで籠城戦を決意。籠城戦は長期にわたるが、秀吉軍は北条氏の関八州の支城や砦を次々と攻め落として小田原城を孤立化させ、6月27日には小田原城を見下ろす笠懸山の山頂に「石垣山一夜城」と呼ばれる陣城を完成。孤立化した小田原城内では軍議がなかなかまとまらず、世に言う小田原評定を続けたが、天下あげての大軍には抗しきれず7月5日、ついに小田原城は開城。四代北条氏政は切腹、五代北条氏直は高野山に追放。ここに関八州を制した北条氏5代95年の歴史の幕は閉じる。 同年、徳川家康が関八州に移封されると、小田原城は江戸城防衛の西の要として重要視され、家康の腹心大久保忠世が 入城するが、慶長19年(1614)その子大久保忠隣(ただちか)が謀反の密告により改易。小田原城は大幅に規模が縮小され、徳川幕府の番城となる。元和5年(1619)上総大多喜から阿部正次が入城。次いで寛永9年(1632)下野真岡から稲葉正勝が小田原城主となり、三代将軍徳川家光の後押しで三層の天守・本丸・二の丸・三の丸と城の整備が行なわれ、近世城郭となった。 貞享3年(1686)下野佐倉から大久保忠隣の子孫である大久保忠朝が11万3千石で入封。以後、小田原城は大久保氏10代の居城として明治維新を迎える。 |
| 一口話 | 四国・九州征伐を終え、天下人を目指す豊臣秀吉は余裕を持って小田原攻めに臨んだ。小田原城を見下ろす「笠懸山」の山頂に石垣積みの城を築き、一夜にして城が完成したように見せかけるため、夜陰に乗じて周辺の樹木を切り払い、小田原城から良く見えるようにした。夜が明けて、小田原城中の将兵は忽然として現われた城に驚き、士気を失い開城に至った。 岐阜城を落城させた「墨俣一夜城」とともに「石垣山一夜城」と呼ばれ、秀吉得意の戦略の総仕上げであった。 |
| 見どころ | 小田原城跡は北条氏が築き上げた巨城の面影は無いものの 国の史跡に指定され、「城址公園」として整備が続けられている。城跡の東側と西側に一部残る堀を眺めながら馬出門跡から馬屋曲輪跡へと入城したい。馬屋曲輪跡北側から堀越しに一層の二の丸隅櫓が眺められる。二の丸隅櫓は城主の居館があった二の丸の南東隅に建てられた櫓だが、現在の櫓は昭和9年に復興されたもので、江戸期のものと比較して一回り小さいという。 馬屋曲輪跡から堀に架かる住吉橋を渡ると二の丸の表門であった銅門(あかがねもん)。櫓門、内仕切門及び土塀から構成された枡形門で、平成9年に復元された。堂々とした櫓門の扉には名前の由来となった銅板の 装飾が施されている。銅門をくぐると二の丸跡で、小田原城の歴史を音と映像で楽しく学べる歴史見聞館がある。二の丸跡西側には菖蒲園があるが、ここが本丸東堀跡で、最も幅のあるところでは20m以上もあったとのこと。 二の丸跡から本丸跡への入口に昭和46年に復元された常盤木門が建つ。本丸の正門で、小田原城の城門の中でも最も大きく堅固に造られていた。多 門櫓と渡り櫓から構成される枡形門形式。常盤木とは常緑樹の意味で、門の側にあった巨松になぞらえてこの名が付けられた。常盤木門をくぐるといよいよ本丸跡で、昭和35年に復元された三層四階の天守がそびえ建つ。多門櫓と続き櫓を伴った複合式天守で、内部は古文書、絵図、武具、刀剣など小田原城に関する様々な歴史資料が展示され、最上階からは石垣山一夜城跡や相模湾が一望できる。石垣山一夜城跡はまさに小田原城を見下ろす格好の山で、北条氏が開城したのもうなづける。 ![]() 本丸跡北側に御用米曲輪跡がある。今では臨時駐車場となっているが、江戸時代には江戸城に送る御用米を貯える米蔵が建てられていた。御用米曲輪の周囲は石垣ではなく土塁で囲まれており、北条氏時代の姿を残している部分と考えられている。 城址公園奥の小峯御鐘ノ台周辺には大きな堀切と土塁の遺構が残っている。御茶壷曲輪跡、小峯曲輪跡、屏風岩曲輪跡、焔硝曲輪跡、弁財天曲輪跡などとあいまって、在りし日の小田原城を偲ぶよすがとなる。 |
| 周辺案内 | 長興山紹太寺は江戸時代初期の小田原藩主であった稲葉氏一族の菩提寺。初代の稲葉正勝の母は三代将軍徳川家光の乳母であった春日局である。往時は七堂伽藍の大寺院で見事な庭園もあったが、幕末の火災によって焼失し、現在では子院の清雲院が紹太寺の寺号を継いでいる。寺院内の鬱蒼とした樹木、清流、苔むした巨石などがかつての紹太寺の名残を今に伝えている。 薪を背負いながら書物を読む銅像で親しまれている二宮尊徳は小田原の生んだ偉人。二宮尊徳の生家とともに尊徳記念館があり、二宮金次郎の生い立ちなどを紹介した展示室とともに、生涯学習の場所となっている。 また、小田原は箱根観光の基地で、箱根へ行けば湯元にある北条早雲の墓にも立ち寄りたい。 |