前 橋 城
北関東の押さえとして戦国群雄の争奪戦が繰り返された城
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| 土塁 |
| 歴 史 | 前橋城はもともと厩橋(まやばし)城と呼ばれていた。室町時代後期に長尾忠房が築いた城が始まりと伝えられているが、利根川の氾濫で水没。わずかに残った三の丸を足がかりに、箕輪城主長野氏の一族である長野賢忠が天文3年(1534)に築城したのが厩橋城である。 戦国の乱世となった天文20年(1551)関東管領上杉憲政は小田原の北条氏に追放され、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)のもとに走り、長尾景虎に上杉の姓を与えた。このことによって上州一帯は北条氏の支配下に入り、厩橋城主長野賢忠も北条氏に城を明け渡し、密かに越後の上杉謙信と通じて厩橋城奪回の機会をうかがっていた。 永禄3年(1560)上杉謙信は大軍を率いて上州に進出、厩橋城を攻め落とし、長野賢忠を城代とした。上杉謙信は天正6年(1578)に亡くなるまでの18年間、厩橋城を拠点として関東へ出陣すること十数回に及んだという。 上杉謙信が死去すると、甲斐の武田勝頼が厩橋城を攻め落としたが、その武田勝頼も天正10年(1582)織田信長に滅ぼされ、信長の重臣滝川一益が厩橋城主となる。しかし、同年、信長が本能寺の変で倒れると、滝川一益は上州を去り、厩橋城は再び小田原北条氏の持城となった。 天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏が滅亡し、徳川家康が関東一円を与えられて江戸城に入城すると、平岩親吉が3万3千石で厩橋城主になる。その後、慶長6年(1601)酒井重忠が武蔵川越から入封。酒井氏は3代にわたって城を大改修して近世城郭を築き上げ、厩橋城を前橋城と改称した。 酒井氏の治世は9代、150年間続いたが、寛永2年(1749)播磨姫路へ転封。代わって武蔵川越から松平直克が17万石で入封、以後、前橋城は松平氏2代の居城として明治維新を迎える。 |
| 一口話 | 酒井氏は徳川家康と祖先を同じくする三河以来の譜代大名の筆頭ともいえる。中でも、四代藩主酒井忠清は四代将軍徳川家綱の下で大老職を務め、権勢並ぶものがなく、俗に「下馬将軍」と呼ばれた。 「下馬」とは忠清の屋敷が江戸城の大手門下馬札前にあったため。さらに「将軍」と呼ばれたのは家綱が病弱で政治力がなかったため、実質的に政務を執ったのは忠清だったからである。 権勢を誇った忠清も徳川将軍家の跡目相続をめぐって堀田正俊と争い、館林城主綱吉が五代将軍になると、お役ごめんとなって、その翌年に死去。時に58歳。 |
| 見どころ | 前橋城は酒井氏時代の末期に利根川の氾濫で大被害を受けた。酒井氏が再建築に着工しようとする矢先に姫路へ転封。代わって前橋城主となった松平氏は一時、川越城に移って、慶応2年(1866)から翌年にかけて町人たちの協力を得て前橋城を再建した。 海外列強が日本をうかがう幕末の情勢だっただけに、再建された前橋城は櫓などを築かず、代わりに十数ヶ所に砲台を設けるなど、洋式の建築法を取り入れた螺旋状の構造であった。 この前橋城も今では本丸跡は群馬県庁となり、県庁の北から西にかけて残る土塁に往時の面影をとどめるだけで、土塁上には「前橋城址」の碑が建っている。前橋城の門の中でも重要な門の一つだった車橋門跡や砲台跡も貴重なものといえよう。 また、三の丸跡一帯は前橋公園として市民の憩いの場所となっている。 |
| 周辺案内 | 酒井氏の菩提寺・龍海院は三河から川越、さらに前橋へと移された寺で、酒井氏初代重忠から十五代の忠顕までの墓が建ち並んでいる。九代忠恭の時に姫路に転封されるが、墓所はそのまま龍海院に置かれた。特に二代忠世と三代忠行の墓はひときわ高く立派なもの。 前橋が生んだ萩原朔太郎の記念館を訪れたい。敷島公園のバラ園内に移築されたもので、土蔵、書斎、離れ座敷からなり、離れ座敷の庭園は移築とともに往時のままの姿に復元。書斎は朔太郎自身の考えで味噌蔵を改造したものといわれ、西洋風に統一されたインテリアは大正時代としては極めて先端的なもので、朔太郎独特の作風がうかがえる。 前橋市蚕糸記念館は明治末期の貴重な建物で、蚕糸業とともに歩んできた前橋の近代史を学ぶことができる。 |