久 留 里 城
難攻不落を誇った里見氏の前線基地
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| 復元天守 |
| 歴 史 | 久留里城は平将門の三男頼胤が築城したとの伝説があるが、史実の程は定かではない。室町時代の永享12年(1440)甲斐の武田信長が上総国守護職となり、その子の真里谷城主武田信高が真里谷城の支城として久留里城を築いたといわれている。 天文6年(1537)頃、清和源氏の流れをくみ、安房を本拠とする里見氏六代義尭(よしたか)が久留里城を攻め落とし、武田氏が築いた城の南東の丘陵を造成、久留里城を大改築して上総の本拠地とした。里見義尭は越後の上杉謙信と同盟を結び、小田原の北条氏と対立。このため、北条氏は再三にわたって久留里城に攻め寄せたが、難攻不落を誇る久留里城を落とすことは出来なかった。 天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐の際、里見氏九代義康が小田原参陣に遅参したため、秀吉によって上総領を没収され、安房一国を領するだけになった。同年、関東に入封した徳川家康は大須賀忠政(徳川四天王の一人榊原康政の嫡男)に3万石を与えて久留里城主とした。 大須賀忠政は戦国時代の山城を近世城郭に改築したが、慶長6年(1601)忠政は遠江横須賀に転封。代わって土屋忠直が入城。土屋氏は3代続くが、延宝7年(1679)土屋氏三代直樹は喪心を理由に改易、久留里城も破却された。 その60余年後の寛保2年(1742)上野沼田から黒田直純が3万石で入封、徳川幕府から5千両を借り受けて久留里城を4年がかりで再建。以後、久留里城は黒田氏9代の居城として明治維新を迎える。 |
| 一口話 | もともと安房国を本拠としていた名族里見氏は久留里城を上総経営の本拠地として、戦国時代には安房・上総・下総三国を支配するという大勢力となった。 久留里城はその前線基地となったが、築城に際しては三日に一度雨が降って難儀をしたという伝説がある。このため、久留里城は別名「雨城」とも呼ばれた。その里見氏も秀吉によって安房一国に閉じ込められ、徳川幕府によって滅びることになる。しかし、里見氏は滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』で後世にまでその名を残している。 |
| 見どころ | 久留里城は戦国時代には標高180mの山頂に本丸を置き、少しさがったところに二の丸、山麓に三の丸・外郭・堀を設けていた。四方が切り立った崖で、小櫃川を外堀とした縄張りで、難攻不落の城とうたわれた。 江戸時代には本丸に番所を置き、山麓の三の丸に藩庁を設けてここで藩政を執っていた。 ![]() 山頂の本丸跡には高さ2mの櫓台が残り、二層三階の天守が昭和54年に復元された。復元天守のすぐそばに、波多野曲輪跡、少し下ったところに天神曲輪跡、さらに下ると薬師曲輪跡、四方を土塁で囲んだ二の丸跡があり、二の丸跡には久留里城址資料館が建っている。久留里城や君津市に関する歴史資料を展示しているが、戦国時代の資料がひときわ興味をひく。 また、尾根伝いに久留里曲輪跡や阿弥陀曲輪跡があり、これらを堀切でつないでいる。 山麓から本丸跡までは急勾配の道が続くが、復元天守からの眺望はなかなかのもの。往時の面影を残す古い道もあるので、山頂まで登れば久留里城がいかに要害堅固な城であったかが実感できる。 |
| 周辺案内 | 神野寺は聖徳太子の創建といわれる房総半島きっての名刹。表門は切妻造り茅葺きの「四脚門」で、国の重要文化財。本堂は江戸時代中期のもの。 神野寺にほど近い九十九谷展望台から眺める風景は捨てがたい。山並みが幾重にも重なり、墨絵のようにかすむ様子から九十九谷と名付けられ、東山魁夷画伯の「黎明」の題材になったことでも有名。 久留里は銘水の町としても知られ、町中に点在して銘水が湧き出て、この水で仕込んだ清酒の味はまた格別。 君津市内には久留里が生んだ江戸時代の大学者・新井白石の旧宅も残っている。 |