国 府 台 城
(こうのだいじょう)
二度にわたる国府台の戦いで有名な城
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| 土塁 |
| 歴 史 | 鎌倉時代からの名族千葉氏が二つに分かれ、千葉自胤が武蔵石浜城、千葉孝胤が下総臼井城にそれぞれ籠もって争った時、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰太田道灌が千葉自胤を助けるため、文明11年(1479)砦を築いたのが国府台城の始まりという。 国府台城を有名にしたのが二度にわたる国府台の戦いである。一度目の戦いは天文7年(1538)。古河公方に対抗して小弓御所と称する足利義明は里見義尭(よしたか)ら房総勢1万を率いて国府台に出陣、これに対して古河公方・足利晴氏の要請を受けた小田原の北条氏綱は2万の大軍で足利義明軍を攻める。実戦の経験に乏しい総大将足利義明は部下の進言を聞き入れず、敵を甘くみて自ら前線に立ってあっけなく討死。総大将の戦死によって戦意を失った房総勢はまたたくまに総崩れとなり、里見義尭らは安房に敗走して北条氏綱の大勝におわった。 それから26年後の永禄7年(1564)、里見義尭の子義弘は国府台城に出陣、北条氏綱の子氏康と戦った。これが第二次国府台の戦いで、里見氏は江戸川を防衛線として総力を上げて戦い、緒戦は里見軍の勝利におわった。その夜、里見軍が勝利の美酒に酔って寝込んでいる隙に、北条氏康軍は一斉に総攻撃を開始、油断していた里見軍は再び破れ、里見義弘は上総へ敗走した。 二度にわたる国府台の合戦に勝利した北条氏も天正18年(1590)豊臣秀吉によって滅ぼされ、同年、徳川家康が関東に移封されると、その居城・江戸城の俯瞰の地であることから国府台城は廃城となった。 |
| 一口話 | 室町幕府を開いた足利尊氏は二代将軍義詮(よしあきら)の弟の足利基氏を関東公方とした。この関東公方も足利成氏の代になって八代将軍足利義政によって鎌倉を追われ、古河へ移って古河公方となる。足利義明は古河公方・足利高基の弟で、房総を支配する里見氏の力を借りて、下総の小弓城主となり、自ら小弓公方と称して古河公方にとってかわろうとした。 その足利義明も第一次国府台の戦いで討死。関東の足利氏は古河公方と堀越公方の二つに分かれ、関東管領であった上杉氏も扇谷上杉氏と山内上杉氏に分裂。このように足利氏は内紛の連続で、このことが応仁の乱の下克上の時代を生み、戦国時代の口火となった。 |
| 見どころ | かつては下総国の国府が置かれたところで、江戸川に臨む標高20mほどの自然林が生い茂る台地が国府台城跡である。現在は里見公園となり、桜の名所として有名。園内には土塁や、「物見の松」と呼ばれる櫓台などが残り、「里見軍将士亡霊碑」が建っている。 里見公園の北西にある総寧寺の境内には国府台の戦いの伝説を伝える「夜鳴き石」がある。里見軍の武将里見弘次の姫が凄惨な国府台の戦いの光景を見て、この石にもたれて泣きながら憤死し、それ以後、この石から毎夜のごとく泣き声が聞こえたという伝説からこの名が付けられた。 国府台城跡には土塁ぐらいしか残っていないが、天然の外堀をなしていた江戸川を里見公園から眺める時、この台地や江戸川を血に染めた北条氏と里見氏の二度にわたる激しい攻防戦に思いをはせざるをえない。 |
| 周辺案内 | 市川市内では幾多の貝塚が発掘されたが、中でも堀之内貝塚は国の史跡に指定されている。堀之内貝塚に隣接する市川市立考古博物館には貝塚から発掘された土器、石器や人骨などや、国府、国分寺跡から出土した瓦や文字が書かれている土器など、原始・古代の考古資料を展示している。 同じく、堀之内貝塚に隣接する市川市立歴史博物館は鎌倉時代からの市川の歴史や文化資料を展示、郷土コーナーでは市川にゆかりの人々を紹介している。 また、奈良・唐招提寺御影堂の障壁画で有名な東山魁夷画伯の絵画を展示している東山魁夷アートギャラリーもある。 |