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江 戸 城

徳川将軍家15代が君臨した日本史上最大の城郭

 所在地:東京都千代田区・中央区
 別  称:千代田城
 築城年:康正2年(1456)、慶長11年(1606)
 築城者:太田道灌、徳川家康・秀忠・家光
 形  式:平山城
 遺  構:櫓、城門、番所、石室
      石垣、天守台、土塁、堀、郭跡

 地図 
桜田二重櫓(巽櫓)
歴 史  江戸城の歴史は古く、平安時代末期に「武蔵七党」平川濠と本丸跡の石垣の一つである秩父党の江戸氏が居館を構えたのが始まり。
 江戸氏は鎌倉幕府の重職を務めたが、室町時代に入ると勢力は衰退。康正2年(1456)関東管領扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の執事太田道灌が関東の押さえとして江戸城の築城に着工、翌長禄元年(1457)に完成した。
 その太田道灌も数々の武功をあげながら、文明18年(1486)主家の扇谷上杉定正によって暗殺。以後、江戸城は扇谷上杉氏の持城となる。
 戦国時代に入って、大永4年(1524)小田原城の北条氏綱は武蔵に兵を進め、扇谷上杉朝興を追放して江戸城を奪取。大手門・高麗門北条氏は歴代江戸城を番城とした。
 天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原攻めで北条氏が滅びると、徳川家康は秀吉によって関八州に移封され、江戸城を本拠とした。
 当時の江戸城は城とは名ばかりの荒れ果てた状態で、周辺の人煙もまばらであった。家康は江戸城の修築を始めるが、慶長8年(1603)に江戸幕府を開いた後、慶長11年(1606)から本格的な築城工事に着手。外様大名を中心に諸大名を動員した天下普請で、工事は徳川家康・秀忠・家光の3代にわたり、寛永13年(1636)二重橋に本丸・二の丸・三の丸・西の丸・北の丸からなる周囲16km余りもの大城郭が完成した。
 本丸に築かれた天守は慶長12年(1607)二代将軍徳川秀忠の時代に完成したが、寛永15年(1638)三代将軍徳川家光は江戸幕府の権威を象徴する天守を大修築し、五層六階、高さ50m余の当時最大の天守を築き上げた。
 この天守も完成からわずか19年後の明暦3年(1657)1月のいわゆる振袖火事(明暦の大火)で焼失。天守再建の声も多かったが、保科正之(徳川秀忠の庶子)が異議を唱え、四百人番所代将軍徳川家綱もこの意見を受け入れたため、天守はついに再建されなかった。
 江戸城は十五代将軍徳川慶喜まで江戸幕府の権威の象徴であったが、幕末になってその権威も大きく揺るぎだす。
 嘉永6年(1853)アメリカのペリー率いる蒸気船が浦賀に来航して開国を要求して以来、尊皇攘夷の声が次第に高まる。その中で、安政5年(1858)時の大老井伊直弼が勅許を待たずして日米修好通商条約を結び、反対派を弾圧(安政の大獄)。このため、安政7年(1860)水戸脱藩士らによって井伊直弼は桜田門外で殺害される。
 十四代将軍徳川家茂の時代となると、幕府の権威はますます乾門地に落ち、長州藩が引き起こした「禁門の変」を機に第一次、第二次長州征討の兵を起こすが、これに失敗。
 慶応3年(1867)薩長両藩主に倒幕の密勅が下されたため、十五代将軍徳川慶喜は大政を奉還。翌慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争では、官軍側の西郷隆盛と幕府側の勝海舟による会談で江戸城は無血開城。
 同年、新政府によって元号が明治と改称され、江戸は東京と地名が変わる。東京遷都後は江戸城西の丸跡一帯が皇居となり、現在もなお城としての役割を果たしている。
一口話  平川門の側に不浄門が残っている。江戸城内の死者は舟で堀を移動し不浄門をくぐり、城外へ出された。
 生きながら不浄門を出されたのは、松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ赤穂藩主浅野内匠頭と、「絵島生島事件」で有名な奥女中絵島だけといわれている。不浄門は江戸城の鬼門の方向にあり、石垣にはお経が書かれている。
見どころ  桔梗濠江戸城の面積は230万平方mに及び、江戸城に次ぐ大きさを誇る名古屋城の3倍もの大城郭であった。
 現在、江戸城跡は北の丸跡を除いて宮内庁の管轄下にあり、本丸跡と二の丸跡、三の丸跡の一部が皇居東御苑として、特別な行事が無い限り、月・金曜日以外は一般に公開されている。皇居外苑に含まれる濠と東御苑の一部は国の特別史跡。
 江戸城跡を取り囲む広大な濠は大手濠、平川濠、桜田濠、桔梗濠、乾濠など様々な名が付け本丸跡への入口にある中雀門跡られているが、いずれの濠も見事というほかはない。
 江戸城跡内へは大手門、平川門、北桔橋門(きたはねばしもん)の3ヵ所から入ることができるが、かつて諸大名が登城した大手門から入城したい。
 大手門は他の平川門や桜田門、桔梗門などとともに高麗門と櫓門で枡形を構成しているが、中でも大手門が一番大きくて重厚である。
 三の丸跡は立ち入り禁止区域が多くて見るべきものはないが、二の丸跡でまず目に付くのは同心番所。かつて同心が詰め、主として登城する大名の供の監二の丸庭園視をしていたところ。
 ここから少し行くと長大な百人番所。本丸と二の丸へ通じる要所である大手三之門前に設けられた見事な番所で、鉄砲百人組と呼ばれた甲賀組・伊賀組・根来組・二十五騎組の4組が昼夜交替で詰めていたところ。各組には同心が百人ずつ配属されていたという。
 百人番所から中之門跡を過ぎたところに大番所が残っている。他の番所よりも位の高い与力と同心によって警備されていたところ。
 この大番所前の坂を上ったところ天守台上り口の石垣が本丸跡で、本丸跡入口に切石積みの見事な中雀門(ちゅうじゃくもん)跡が残る。
 本丸跡に行く前に二の丸跡を散策したい。二の丸跡から白鳥濠越しに眺める本丸跡の石垣はなかなかの迫力がある。二の丸庭園も四季折々に美しく、二の丸跡の一角に「諏訪の茶屋」が建っている。明治45年に再建されたもので、外観は優雅そのもの。
 天神濠越しに二の丸跡の石垣を眺めた後、平川門に向かい二の丸跡に建つ諏訪の茶屋たい。大手門より少し小ぶりだが、高麗門と櫓門で枡形を構成している。ここで見逃せないのが櫓門に付随する不浄門。正面から眺められないのがいかにも不浄門らしい。
 いちど平川門を出て平川濠沿いに西へ進み北桔橋門から本丸跡に再入城するのがお勧め。北桔橋門は北の丸跡から本丸跡に通じる高麗門で、緩やかな坂道となっているが、平川濠越しに眺める本丸跡の高石垣と北桔橋門は絵になる風景。北桔橋門から西へ少し行くと富士見多門乾門(非公開)がある。
 北桔橋門をくぐると広々とした本丸跡で、巨大な天守台に圧倒される。ここにかつては五層六階の大天守がそびえ、徳川幕府の権威を天下に示していたと思うと感慨もひとしお。整然と積まれた切石が実に美しい。
 本丸跡には石室、富士見多門、富士見櫓が残り、浅野内匠頭が刃傷に及んだ松の大廊下跡には石碑が建っている。
 石室は抜け穴とか金蔵とか諸説があるが、大奥御納戸の脇に位置することから、非常の際に大奥用の調度などを納めたと天神濠と二の丸跡の石垣ころと考えられている。内部の広さは20平方mもあり、天井には長い石の板が使われている。
 富士見多門は石垣の上に設けられた長屋造りの倉庫で、鉄砲や弓矢など武具が納められていたところ。
 かつて江戸城内には19基の櫓が築かれていたが、現存するのは富士見櫓と伏見櫓と桜田二重櫓。三層の富士見櫓は明暦の大火で焼失した天守の代用として使われ、将軍が両国の花火や品川の海を眺めたところという。
 大手門南側の桔梗濠越しに眺める桜田二重櫓(巽櫓)はまことに美しい。桜田二重櫓の西側には非公開ながら枡形形式の桔梗門があり、桔梗濠に臨むその姿は清々しい感じがする。坂下門
 桔梗門から蛤濠に沿って南西に行くと堂々とした坂下門(非公開)がある。坂下門からさらに南西に行くと皇居のシンボルともいうべき二重橋に至り、二重橋越しに端正な二層の伏見櫓が遠望できる。二重橋を渡ったところが皇居正門。
 二重橋南西に井伊直弼が凶刃に倒れたことでその名を知られる桜田門がある。高麗門と櫓門からなる広々とした枡形を形成しているが、この門を見るとき、多事多難であった幕末の歴史が頭に浮かぶ。桜田門前から桜田濠越しに今は皇居となっている西の丸跡を眺め皇居正門ると、石垣と違って土塁で固められ、いかにも風情がある。
 桜田濠に沿って緩やかな坂道を上って行くと土塁上に築かれた半蔵門(非公開)がある。小ぶりな門だが、正面よりも斜めから眺める姿が印象的。
 千鳥ヶ淵、牛ヶ淵、清水濠に囲まれた北の丸跡には田安門と清水門が残り、ともに国の重要文化財。両門とも高麗門と櫓門からなる枡形だが、それぞれ趣きが異なる。
 江戸城跡をくまなく見て回るにはほぼ一日を要し、我が国で比類ない大城郭であったことが実感できる。
周辺案内  新橋に近い増上寺は明徳4年(1393)の創建で、徳川家康の江戸入府の際に菩提寺となった。境内には三門、大殿、経蔵、護国殿、書院などが建っている。徳川家から厚い庇護を受けた名残りは台徳院霊廟の惣門と有章院霊廟の二天門に残っている。
 上野の寛永寺は徳川家代々の菩提寺。江戸時代には比叡山延暦寺を模し、根本中堂を中心に七堂伽藍を備えた大寺であった。しかし、戊辰戦争の際、江戸城は無血開城したものの、血気にはやる彰義隊が寛永寺に籠ったため、官軍の兵火で堂宇を失った。現在の本堂は川越喜多院の本地堂を移したもの。
 東京に来たからには浅草寺に参拝したい。「浅草の観音様」で知られる東京都内最古の寺で、推古天皇36年(628)に聖観世音菩薩像を安置し、小堂を建てたのが始まりと伝えられている。江戸時代には幕府の祈願所として栄えたが、第二次世界大戦の戦災で二天門と伝法院本坊以外の堂宇が焼失した。戦後、本堂・雷門・五重塔・宝蔵門が再建され多くの参拝客で賑わっている。浅草界隈は「寅さん」の映画で見られるように、下町の風情が感じられる。

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