
千 葉 城
平氏の末裔と称する房総の千葉氏の居城
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| 模擬天守 |
| 歴 史 | 千葉城は平安時代末期の大治元年(1126)関東八平氏の筆頭である千葉常重が築城。以来、千葉氏は14代、230年間にわたって下房総を支配した。 千葉氏の全盛期は常重の子、千葉常胤(つねたね)の時で、治承4年(1180)源頼朝が伊豆で挙兵し、石橋山の合戦に破れて安房に逃れたとき、千葉常胤は一族を率いて頼朝を助け、鎌倉幕府樹立に尽力。このため千葉氏は陸奥や下総など数ヶ国の所領を与えられ、千葉六党といわれるほどの大勢力となった。 しかし、室町時代の享徳3年(1454)鎌倉公方と古河公方の対立で関東に動乱が起こり、さらに安房の里見氏の勃興もあって、千葉氏にも内紛が勃発。康正元年(1455)千葉氏十四代胤直の時、叔父の馬加康胤(まかやすたね)と家臣らに急襲され、千葉胤直は自刃、ここに千葉氏の宗家は滅亡した。 宗家を乗っ取った馬加康胤は千葉氏の名跡を継いだが、長禄元年(1457)本拠を千葉城から本佐倉城(千葉県印旛郡)に移したため、千葉城は廃城となった。 この千葉氏も九代重胤の時、安房の里見氏の勢力に押されて小田原の北条氏の傘下に入ったが、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐によって北条氏もろとも滅亡することになる。 |
| 一口話 | 千葉氏は桓武天皇の曾孫高望王の五男平良文を祖先とする。平良文の孫平忠常は長元元年(1028)地方官吏の悪政に対して反乱を起こし、房総半島のほぼ全域を支配した。世に有名な平忠常の乱である。 平忠常は朝廷が派遣した追討軍の大将である源頼信に降伏、京への護送中に病死するが、忠常の子常将は源頼信に可愛がられ、忠常の遺領を引き継いで千葉氏と称した。千葉城を築いた千葉常重は常将の曾孫にあたる。 |
| 見どころ | 千葉城は都川の下流、標高30mの東京湾に臨む亥鼻丘陵上に築かれ、西は断崖絶壁、北は都川が自然の水堀となり、南は細長い侵食谷、東は台地が続き、入り組んだ小さな谷を空堀とした天然の要塞であった。 現在、千葉城跡は「文化の森」と呼ばれ、市民の憩い の場所になっている。園内には昭和42年に四層五階の天守が小田原城を模して築かれた。天守内部は郷土博物館となり、千葉氏に関する歴史資料や文化財を展示しているほか、プラネタリウムも併設されている。しかし、往時の千葉城は天守や石垣もなく、木造の城主館に櫓、矢倉、米倉などを配した中世城郭で、各曲輪を堀切で区切り、土塁をめぐらしていた。千葉城跡の遺構はほとんど残っておらず、土塁や堀切の一部に面影を留めるのみである。 亥鼻山の北側の麓には史跡「お茶の水」がある。千葉氏の祖平良文の子忠頼が生まれた時にこの泉が湧き出しと伝えられ、千葉氏は代々、この水を産湯とした。源頼朝が千葉城に立ち寄った時、千葉常胤はこの湧水で茶を献じたという。 |
| 周辺案内 | 千葉といえば幕張メッセが有名。大型展示場を中心にイベントホール、国際会議場が一体となったコンベンション施設。東京モーターショーなど大型の展示会が次々と催され、全国から人々が集まってくる。 千葉県立美術館は近代・現代美術を中心に各分野にわたって作品を紹介しているが、中でも明治の洋画界の先駆者浅井忠の絵画は貴重なもの。 縄文時代の貝塚跡として有名な加曾利貝塚には、縄文時代中期から後期の石器や土器を展示した博物館のほか、竪穴式住居などが復元されている。 |