足 利 氏 館
中世の館の面影を残す足利氏発祥の地
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| 鑁阿寺 |
| 歴 史 | 足利氏発祥の地・足利荘は、源義家の子・源義国が開発した私領を寄進したものと推定される。義国は横暴な振る舞いがあったため、京都で勅勘をこうむるが、義家の孫にあたる義康が足利氏を名乗り、足利荘に館を構える。二代目義兼は源頼朝の挙兵にいち早く応じ、北条時政の娘を娶り、足利荘を安堵され、鎌倉時代の名族となった。 義兼は健久6年(1195)に出家、法名を鑁阿(ばんな)とし、翌健久7年邸内に持仏堂を建て、三代目足利義氏が堂塔伽藍を建立し、足利一門の氏寺とした。この持仏堂が現在に伝わる鑁阿寺である。仁治2年(1241)の文書には「堀内御堂」とある。 宝治2年(1248)足利義氏が境内での子供の悪戯や、商人の横行を禁じるなど、次第に寺院としての規模を整え、館から寺へと変貌していった。 |
| 一口話 | 足利尊氏は、戦前・戦中は逆賊扱いだった。戦後になって大きく評価され、室町幕府を開いた名将とみなされるようになった。後醍醐天皇の建武の中興は、所詮時勢に逆流するもので、多くの武士は源氏の流れを汲む足利尊氏を頭領と仰いだ。 南北朝の動乱を描いた『太平記』は実に面白い読み物である。 |
| 見どころ | 足利市のほぼ中央にある鑁阿寺が足利氏館の遺跡として国の史跡に指定されている。足利氏館は鎌倉時代の大規模な武士の館の典型というべきもの。周囲に土塁と堀をめぐらした寺域は、東西が南北に比べてやや長い長方形で、約4万平方mもある。鑁阿寺があったことで、貴重な館の遺跡が残されたといえる。 二代目足利義兼が建立した持仏堂の本尊は大日如来で、足利市民には「大日様」と呼ばれ親しまれている。春は桜、秋はいちょうの黄葉が美しい。 |
| 周辺案内 | 足利市では国の史跡、足利学校が見逃せない。足利学校の創建については、平安時代の小野篁(おののたかむら)説、鎌倉時代の足利義兼説などがあるが、歴史上はっきりしているのは室町時代の上杉憲実による中興である。憲実は、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、学長制度を設けたという。天文年間(1550年頃)には「学徒三千」といわれるほどになり、フランシスコ・ザビエルは「日本国中最も大にして最も有名な坂東の大学」と世界に紹介した。 しかし、江戸時代末期には足利学校の役割を終わり、明治に入って廃校になった。現在は、寛文8年(1668)に建てられた三つの門が復元。孔子を祀った聖廟もある。 |