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高 岡 城

築城時の面影を残す近世初頭に廃された城

 所在地:富山県高岡市古城
 築城年:慶長14年(1609)
 築城者:前田利長
 形  式:平城
 遺  構:石垣、堀、土塁、井戸、郭跡

 地図 
外堀
歴 史  慶長14年(1609)前田家二代前田利長の居城であった二の丸跡と本丸跡を結ぶ土橋の石垣富山城が火災で焼失したため、同年、利長は徳川幕府の許しを得て高岡城を築き居城とした。当時の金沢城の前田家は利長の弟前田利常が三代目を継いでいたため、高岡城は利長の隠居城であった。
 築城に際しては、食客として前田家に身を寄せていたキリシタン大名としてその知られる高山右近が縄張りを行い、京都の伏見にあった豊臣秀次の館の良材を使って殿閣を建てたといわれている。
 本丸跡に建つ前田利長の騎馬像隠居の身とはいえ、利長は16万石。家臣400名余りが利長に従って移住。慶長17年(1612)利長は16万石のうち10万石を金沢城の前田家本家に返上し、家臣の数も大幅に減らしたという。
 慶長19年(1614)前田利長が逝去した後、高岡城は家臣に預けられたが、元和元年(1615)大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した後、元和の一国一城令によって高岡城は廃城となる。
 廃城後の高岡は加賀前田藩の町奉行の管理化に置かれ、加賀藩の米蔵や火薬庫などが設けられていた。
一口話  前田利長は加賀百万石の藩祖前田利家の嫡男で、父とともに織田信長、豊臣秀吉に仕えて数々の戦功をあげた。利長は父利家が没した後、家督を相続し、幼少の豊臣秀頼の補佐役となった。
 関ヶ原の合戦前夜、徳川家康の謀略によって謀反の疑いをかけられ苦境にたたされた前田利長は母芳春院(お松)にたしなめられて身の潔白を証明。芳春院は自ら人質として江戸に下った。このため、前田家は加賀百万石として幕末まで存続することになる。
見どころ  高岡城は本丸・二の丸・三の丸・明丸・鍛治丸などを配し、内堀内堀と外堀を周囲にめぐらしていた。
 現在、高岡城跡は21万平方mもの広さを持つ古城公園として整備されているが、築城時の縄張りや堀・土塁・石垣などがほぼ完全な形で残っている。
 なかでも満々と水をたたえた外堀と内堀は高岡城跡の最大の見どころで、古城公園の約3分の1が水堀という。こうした民部の井戸水堀が残る公園は全国でも珍しい。
 外堀を渡って二の丸跡、さらに内堀を隔てて本丸跡へと至るが、二の丸跡と本丸跡を結ぶ土橋には乱積みという素朴ながら堅固な方法を用いた石垣が往時の名残りをとどめ、土塁も随所に残っている。
 本丸跡はかなり広い本丸広場となっているが、その一角に前田利長の騎馬像が建つ。この像の背後がかつての天守跡。また、二の丸跡と鍛治丸跡の間の大手口には高山右近の銅像も建っている。土塁
 本丸跡と三の丸(民部丸)跡に井戸が残っているが、三の丸跡の井戸は「民部の井戸」と呼ばれ、城内でも重要な井戸だったという。
 二の丸跡には市民会館、鍛治丸跡には博物館、明丸跡には自然資料館、三の丸跡には市民体育館などが建ち、小竹薮跡は美しい日本庭園となっているが、これらの郭跡を取り囲む内堀と外堀は見事というほかはない。
 公園内は春は桜、秋は紅葉と四季を通じて楽しめ、園内を堀に沿って散策すれば古城の趣きが感じられる。古城公園から眺める立山連峰の雄姿も素晴らしい。
周辺案内  瑞龍寺仏殿(国宝)瑞龍寺は加賀二代藩主前田利長の菩提を弔うため、三代藩主前田利常が建立した寺で、造営には20年の歳月を要したという。現在、法堂・仏殿・山門が国宝で、総門・禅堂・大庫裏・大茶堂は重要文化財に指定され、江戸時代初期の曹洞宗の禅寺として実にすがすがしい感じがする。
 銅器の町・高岡には奈良、高岡大仏鎌倉の大仏とともに日本三大仏の一つに数えられている高岡大仏がある。江戸時代には木造金色の大仏であったが、度重なる火災で焼失し、現在の大仏は再び焼けることのないよう鋳造仏にしたいとの願いから、広く各地に勧進して30年の努力のすえ昭和8年に完成したもの。
 また、高岡は奈良時代、大伴家持が越中国司として赴任した地で、立山をはじめとして224首もの万葉秀歌を詠んでいる。大伴家持にちなんで「万葉歴史館」が建てられ、豊富な文献と資料を展示している。

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