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北 庄 城
(きたのしょうじょう)

越前の猛将柴田勝家8年の夢の跡

 所在地:福井県福井市中央1丁目
 別  称:北ノ庄城
 築城年:天正3年(1575)
 築城者:柴田勝家
 形  式:平城
 遺  構:石垣の根石

 地図 
柴田勝家の銅像
歴 史  北庄には越前朝倉氏の一族が居館を構えていたが、石垣の根石天正元年(1573)一乗谷城の本家朝倉義景とともに、北庄朝倉氏も滅亡。
 天正3年(1575)越前一向一揆を平定した織田信長は織田家隋一の猛将とうたわれた柴田勝家に越前8郡49万石を与え、妹の浅井長政の妻であったお市の方を勝家に嫁がせた。勝家は越後の上杉謙信を牽制するため、北庄の地に大城郭を築くこととし、6年がかりで信長の安土城にも劣らない壮大な城を築き上げた。
 天正10年(1582)本能寺の変で信長が自刃すると、柴田勝家は織田家の後継者をめぐってお市の方の銅像羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と対立。翌天正11年(1583)賤ヶ岳の合戦で秀吉に大敗した勝家は北庄城に落ち延び、今は最期と覚悟を決め、天守で家臣たちと最期の酒宴を催し、城に火を放って、炎の燃えさかる中、勝家とお市の方はともに自刃。家臣も侍女に至るまで、一人残らず北庄城と運命をともにした。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、徳川家康の次男結城(松平)秀康が越前68万石の太守に封じられると、勝家の築いた北庄城を活用して5年がかりで福井城を完成。これにともない北庄城は完全に消滅した。
一口話  柴田勝家はお市の方を3人の娘(浅井長政との子)とともに秀吉に託そうとしたが、お市の方は娘だけを秀吉の手に渡し、自らはこれ以上生き恥をさらすより勝家とともに死ぬ道を選んだ。
 お市の方の辞世の歌は「更ぬだに打ぬる程を夏の夜の別れをさそふ郭公哉(ほととぎすかな)」。これに対して勝家は「夏の夜の夢路はかなき跡の名を雲井に掲げよ山郭公」と詠んだ。時に勝家54歳、お市の方37歳。ともに戦国の世の激しくも悲しい生涯であった。
見どころ  北庄城は足羽川と吉野川の合流点を本丸とし、本丸跡に建つ柴田神社九層の天守を築き、北に二の丸と三の丸を配した壮大な城であった。秀吉が毛利輝元へ宛てた書状にも「城中に矢蔵を高く築き、天守を九重に上せ候」と記されている。
 信長が築いた五層七階の天守を持つ安土城に勝るとも劣ら北庄城址の碑ないこの名城も、今では市街地となり、本丸跡に柴田勝家を祀る柴田神社が建つのみ。
 柴田神社の境内には柴田勝家の凛々しい銅像と可憐なお市の方の銅像が建ち、北庄城唯一の遺構と考えられる石垣の根石のほか、勝家の時代に造られた橋の石柱、舟橋をつないだ鉄鎖が保存されている。
 近代ビルに囲まれた狭い一角だが、この地に立つ時、北庄城とともに壮絶な最期を遂げた勝家とお市の方の運命に思いをはせずにはいられない。
周辺案内  石垣と堀と天守台が残る福井城跡を見学した後、越前陶芸村で日本六古窯の一つである越前焼の名品の数々を鑑賞したり、陶芸に興じるのも良いだろう。陶芸村に隣接する重要文化財の民家は一見に値いする貴重なもの。
 日本海の海岸が美しい越前海岸を敦賀までドライブし、勝家と秀吉の決戦の舞台となり、七本槍で有名な古戦場・賤ヶ岳にリフトで登りたい。湖北の風景が絶景で、余呉湖も眺められ、この地がいかに畿内と越前を結ぶ要衝であったかが実感できる。

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