一 乗 谷 城
見事によみがえった朝倉氏5代の栄華の跡
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| 唐門 |
| 歴 史 | 朝倉氏は代々、細川氏、畠山氏とともに足利幕府の三管領であった 斯波氏の家臣であった。応仁元年(1467)に始まった応仁の乱に際しては、猛将朝倉敏景(孝景)は当初西軍(総大将山名宗全)側だったが、東軍の総大将細川勝元に「東軍に属せば斯波氏の領地である越前を与える」との誘いの言葉をかけられ、東軍に寝返って越前の守護となり、文明3年(1471)一乗谷に居館を築くとともに、その東部にある436mの城山山頂に山城を築いた。朝倉氏三代貞景の代に一乗谷城下の大改造が行われた。四代孝景の時に朝倉氏は全盛期を迎え、京都から多数の公家や文化人が来訪して「北の京」と称されるほどの繁栄を極めた。 五代義景は最盛期の一乗谷を引き継ぐが、戦国時代にあっては越前を守るだけの保守的な武将であった。一時は越前に侵入する織田信長軍を、同盟を結ぶ近江小谷城の浅井長政軍と挟み撃ちにしたが、みすみす信長を敗走させてしまった。 これに怒った信長は、 元亀元年(1570)小谷城の浅井長政攻略に向かい、姉川の合戦で浅井軍とその応援に出向いた朝倉軍を打ち破った。そして、天正元年(1573)その勢いに乗じて一乗谷に迫った。朝倉氏の家臣たちは義景の下では朝倉氏の命運も尽きたとみて、次々に離反していった。このため、朝倉義景は一乗谷城を棄て加賀の一向宗と組んで建て直しを図るため北を目指すが、その途中、一族の朝倉景鏡(かげあきら)に誘われて義景は越前大野の寺に落ち延びた。ところが景鏡は兵200騎で寺を囲み、この裏切りで義景は自刃、享年41歳。ここに栄華を誇った朝倉氏5代100年の幕は閉じた。 信長の追手は逃げる義景を尻目に、もぬけの殻となった一乗谷に火を放ち、その炎は3日にわたって一郭残さず焼き尽くしてしまった。 |
| 一口話 | 足利幕府最後の将軍足利義昭は永禄10年(1567)朝倉氏五代義景を頼って一乗谷に身を寄せる。しかし、義景は越前を守る以上の欲は無く、それを知った義昭は明智光秀の斡旋で織田信長を頼ってゆくことになる。 足利義昭は信長に擁されて上洛するが、天下統一を目指す信長との間に不和を生じ、義昭は武田氏や大内氏など戦国諸大名に助けを求め、世に「筆将軍」の異名を残す。こうした義昭の所業に怒った信長は京都から義昭を追放。義昭は諸国流浪の果てに大坂で没し、名実ともに室町幕府は終わりを告げた。 |
| 見どころ | 灰燼に帰した一乗谷遺跡は昭和42年以来の本格的な発掘調査の結果、朝倉氏の居館や武家屋敷・寺院・町屋・職人屋敷や道路に至るまでほぼ完全な姿が判明。戦国大名の遺跡としては全国でも唯一の貴重なものとして整備され、昭和46年、一乗谷城を含めた278ヘクタールという広大な地域が国の特別史跡に指定されるとともに、平成3年には朝倉氏遺跡内の4つの庭園が国の「特別名勝」にも指定された。一乗谷遺跡は一乗谷川に沿う細長い谷間に あり、上流を上城戸、下流を下城戸、中心を城戸ノ内と呼び、城山山麓の城戸ノ内は城下の中心部で朝倉氏5代の居館跡が完全な姿で残っている。城戸ノ内には武家屋敷・町並みが200mにわたって復元され、この町並みを散策する時、戦国時代にタイムスリップしたかのような感がする。 一乗谷朝倉氏遺跡の入口に建つ唐門は朝倉氏五代義景の菩提を弔うためにその館跡に設けられた松雲院の正門で、江戸時代初期の建物。唐門には朝倉氏の家紋であった「三ツ木爪」が見られる。 唐門を正門とする館跡は朝倉氏遺跡の中心的存在で、東側は山に接し、西・南・北の三方は高さ4mほどの土塁で囲まれ、外側には堀がめぐらされている。整然とした礎石が並び、常御殿・主殿・会所・武者溜・蔵などの間取りが判別でき、南方にある庭 園を取り囲むように接客施設群が配置されていたと考えられている。この見事に残る礎石を眺める時、朝倉氏最盛期の栄華の程が偲ばれる。湯殿跡跡庭園は館跡を見下ろす山腹にあり、四代孝景の頃のものと推定される廻遊式林泉庭園の跡で、戦国時代初期の気風を漂わせる古風で勇壮な石組みが原形を保って残っている。 湯殿跡庭園から空堀を隔てた南の台地にある中の御殿跡は朝倉義景の母高徳院の居館跡といわれ、周囲には土塁と堀跡が残っている。 さらに南に行くと諏訪館跡庭園がある。朝倉義景の愛妻少将の館跡に築かれた庭園で、上下二段からなる豪華なもの。遺跡内の庭園の中でも最も規模が大きく、下段の中央には高さ4mもの巨石を用いた豪壮な滝石組みが見られ、朝倉義景の豪勢な暮らしぶ りに思いを馳せつつしばし佇みたい。館跡の東北200mの高台にある南陽寺跡庭園は朝倉氏代々の息女が尼僧として居住した跡で、一乗谷を訪れた足利義昭を迎え、歓待の宴を催したところ。 館跡から5分ほど山道を登った山間部に朝倉氏繁栄の基礎を築いた朝倉敏景の墓があり、この塚は時として鳴動するという伝説がある。 一乗谷遺跡を見学した後、健脚な人は城山の頂上付近に築かれた山城跡を見て回れば、戦国時代を偲ぶよすがとなるだろう。現在でも千畳敷と呼ばれる礎石や、土塀をめぐらした観音屋敷跡、福井平野が一望できる宿直跡、一の丸・二の丸・三の丸などの遺構が残っている。 |
| 周辺案内 | 一乗谷遺跡を訪ねる前に「一乗谷朝倉氏遺跡資料館」で予備知識を仕入れた上で見学すると、いっそう興味深いものとなるだろう。資料館には朝倉氏遺跡から発掘された貴重な出土品をはじめ、朝倉氏に関する歴史資料や遺跡の模型、戦国時代の火縄銃や将棋の駒などの遺品が展示されている。 朝倉氏遺跡を貫いて流れる一乗谷川の上流に落差12mの一乗滝がある。周囲は鬱蒼とした渓谷で、下関の厳流島で宮本武蔵と決闘して破れた佐々木小次郎は、この一乗滝で修行を積み、かの有名な「燕返し」の秘技を編み出したと伝えられている。 |