福 井 城
徳川家康が縄張りした越前松平氏の居城
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| 石垣と堀 |
| 歴 史 | 慶長5年(1600)関ケ原の合戦に勝利した徳川家康は 北陸の押さえとして、次男結城(松平)秀康を越前68万石の太守に任じた。秀康は翌慶長6年(1601)から柴田勝家の居城であった北ノ庄城を北方に拡張し、5年がかりで、本丸天守を中心に二の丸・山里丸・三の丸を配し、二重の堀をめぐらした近世城郭を築き上げた。特に中心部となる本丸と二の丸は徳川家康が自ら縄張りを行なった。 結城秀康は徳川二代将軍秀忠の兄にあたり、幼くして豊臣秀吉の養子となり関東結城家を継ぎ、結城城から越前入りし藩祖となった。二代藩主忠直は大坂の陣の論功行賞に不満を抱き、乱行を始めたため、豊後に配流。寛永元年(1624)忠直の弟である松平忠昌が越前松平家を継ぐが、北ノ庄は敗北 に通じるとして、地名を福井と改めた。寛文9年(1669)の大火で城下の大半と天守をはじめ建物のほとんどを焼失したが、翌年幕府より5万両を拝借して再建にとりかかった。天守は再建されなかったが、本丸辰己櫓を三層として天守の代わりとし、城下町の復興にもつとめた。 福井城は徳川幕府の親藩・越前松平氏17代の居城として明治の廃藩置県を迎えるが、最後の藩主松平春嶽は高知の山内容堂、宇和島の伊達宗城(むねのり)とともに幕末の三名君とうたわれた。 |
| 一口話 | 豊後に配流となった二代藩主松平忠直は結城秀康の嫡男で、徳川家康の孫にあたる。 乱行に及んだのは大坂の陣の論功行賞に不満を抱いたためと伝えられるが、菊池寛の名作『忠直卿行状記』には生まれながら大名の嫡男として育ち、家臣から武芸をはじめ、すべてにわたって殿様扱いにされ、真の人間関係を失った悲しい藩主の反抗としてその乱行の姿が描かれている。 |
| 見どころ | 徳川家康が自ら縄張りした近世大城郭で、城下町 も整備されていた福井城跡も今では天守台、堀と石垣が残るだけである。本丸跡の北西隅の石垣の上に上ると天守台があり、かつては四層五階の壮大な天守がそびえていた。今でも天守台には整然と礎石が並び、控天守台の南側に福井の名の由来となった「福の井」と呼ばれる井戸が残っている。控天守台の石垣は一部崩壊しているが、これは昭和23年の福井大地震による もの。幅広い堀に囲まれた本丸跡には福井県庁舎と福井県警本部、福井県会議事堂の庁舎が建ち並び、このような姿は全国の城跡の中でも珍しいといわざるを得ない。それでも県庁の周りは「福井城内堀公園」として市民に親しまれており、堀と石垣が織り成す風景が美しい。 堀には3つの橋が架かっているが、西側の天守台下の山里口門跡に至る「おろうかばし」付近が比較的閑静。また、本丸跡南には結城秀康の銅像も建っている。 |
| 周辺案内 | 福井城跡の北東約400mのところにある 養浩館庭園を訪れたい。養浩館は江戸時代には御泉水屋敷と呼ばれ、福井藩主松平家の別邸であった。その優美な庭園は江戸中期を代表する貴重なもので、往時は福井藩の迎賓館として使われていたが、惜しくも太平洋戦争の空襲で建物は焼失。昭和57年国の名勝に指定されたのを契機に建造物と庭園が昔の姿のままに復元された。回遊式林泉庭園で、要所に築山・入江・岬・飛石・休息所などが配置され、変化に富んだ気品あふれる庭園である。少し足を伸ばして越前和紙の里・今立町を訪れれば昔ながらの和紙製造風景も見られ、越前和紙で作った人形など良い土産になるだろう。 |