四 稜 郭
旧幕府軍が五稜郭の背後を固めるため急造した堡塁
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| 土塁と郭跡 |
| 歴 史 | 明治元年(1868)10月25日、旧幕府の海軍副総裁 榎本武揚(たけあき)らは箱館と五稜郭を占領。松前方面をも攻略して蝦夷地を領有した旧幕府軍は12月15日、榎本武揚を総裁として蝦夷共和国を発足させた。これに対し、明治新政府軍は翌明治2年(1869)4月、大軍を派遣して道南各地の旧幕府軍を攻撃したため旧幕府軍は箱館方面に後退。五稜郭に立て籠もる旧幕府軍はその背後を固めるため、五稜郭の北方約3kmの傾斜面の台地上に四稜郭を急造した。 ![]() 伝承によると、旧幕府軍は士卒約200名と付近の村民約100名を動員して4月下旬に昼夜兼行で数日の内に四稜郭を完成させたといわれる。 明治2年5月11日の早朝から新政府軍は箱館総攻撃を開始。新政府軍の岡山藩・徳山藩 の藩兵たちは四稜郭を攻撃。松岡四郎治郎率いる幕府軍は防御に努めたが、新政府軍には福山藩兵も加わり、さらに長州藩兵が四稜郭と五稜郭の中間にあたる権現台場を占拠したため、退路を絶たれることを恐れた四稜郭に籠る旧幕府軍は五稜郭に敗走。わずか数時間の戦闘で四稜郭は陥落した。その五稜郭も5月18日、新政府軍の圧倒的な兵力の前になすすべもなく開城。榎本武揚以下が降伏して箱館戦争は終わった。 |
| 一口話 | 四稜郭の設計者は大鳥圭介といわれている。大鳥圭介は播州赤穂の出身で、大坂の適塾で蘭学と西洋医学を学んだ後、江戸幕府の歩兵奉行となる。 戊辰戦争では主戦論を唱え、蝦夷共和国では陸軍奉行となったが、敗戦が決定した際には潔く降伏。明治維新後は学識が評価されて新政府の高官に取り立てられた。 |
| 見どころ | 四稜郭は蝶が羽を広げたような四稜の突角がある形から その名が付けられた。土塁などが良く残っているため、国の史跡に指定されている。東西約100m、南北約70mの郭跡に土塁をめぐらせ、土塁を取り囲むように空堀が掘られている。 四稜郭跡の石碑が建つ南西側が唯一の出入口で、土塁で固めた虎口 が良く残り、郭内に入ると砲座が配置されていた四隅の突角部が見渡せる。土塁の高さは約3m、幅4〜5mで、空堀に沿って容易に城跡を一周することが出来るが、土塁の様は実に美しい。 土塁の上から四方を見渡すと、蝶が羽を広げたような形が垣間見える。といっても土塁や空堀の規模はさほどでもなく、急造した城郭で、わずか数時間で陥落したという史実もうなづける。 |
| 周辺案内 | 函館といえば100万ドルの夜景で有名。 標高335mの函館山山頂から眺める夜景は宝石箱を覗き込んだ様で実に美しく、世界三大夜景の一つ。また、朝市も楽しみたい。JR函館駅西口そばに、水揚げされたばかりの魚や近郊で採れた野菜などを売る約400軒もの店がひしめきあい、午前4時頃から開かれる朝市はまさに道南の台所。大衆食堂も数多くあり、ここで食べる朝食の味はまた格別。 足を伸ばして大沼国定公園を訪れたい。秀麗な駒ヶ岳の山麓に広がる湖沼群で、散策道も整備されている。初夏の新緑もさることながら、秋の紅葉の美しさは見事というしかない。 |