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松 前 城

北方警備のために築かれた江戸時代最後の城郭

 所在地:北海道松前郡松前町松城
 別  称:福山城
 築城年:嘉永2年(1849)
 築城者:松前崇広(たかひろ)
 形  式:平山城
 遺  構:城門、石垣、堀、井戸、郭
      復元天守・城門

 地図 
内堀と復元天守
歴 史  蝦夷地を支配していた松前氏はもともと蛎崎馬坂(かきざき)氏と称していた。室町時代中期の長禄元年(1457)アイヌ最初の大規模な蜂起となった「コシャマインの戦い」を奥州の南部氏に追われて蝦夷地に渡った武田信広が平定。信広は蛎崎家を継ぎ、松前氏の始祖となった。本丸御門(重要文化財)
 豊臣秀吉が天下を平定すると、五世蛎崎慶広が蝦夷地の支配者として認められ、秀吉の死後の慶長4年(1599)慶広は大坂城で徳川家康に臣従することを誓い、姓を松前と改めた。これによって松前氏は近世大名としてのスタートを切った。
 もともと蛎崎氏の居館は大館に築かれていたが、不便な山城だったため、松前慶広は海に近い耳塚福山の地に慶長5年(1600)から築城に着手。慶長11年(1606)松前城の前身となる福山館が完成した。ここに松前藩が成立することになる。
 松前藩の石高はわずか1万石に過ぎなかったが、ニシンや昆布、搦手二の門(復元)鮭などの海産物の専売や、アイヌとの交易で富を成し、福山館は10万石にも相当する城郭であったと伝えられている。
 北方にロシア船が出没するようになると、北方警備のため松前氏は一時期奥州梁川に移封され、蝦夷地は徳川幕府の直轄地となった。
 幕末になって北方警備に手が回らなくなった徳川幕府は松前氏を蝦夷地に戻し、蝦夷地警本丸表御殿玄関備のため、嘉永2年(1849)十七世松前崇広に福山館の大改築を命じる。崇広は6年がかりで福山館の修築を重ね、安政元年(1854)松前城が完成。これが江戸時代最後の日本式城郭となった。
 海防と火砲への備えを重視した工夫が凝らされ、本丸・二の丸・三の丸からなり、天神坂本丸東南隅には三層の天守が築かれた。三の丸には海に向けて7基の砲台が、城外にも9砲台25門の大砲が配備された。
 外国船警備のため7つの台場を有したという松前城も明治元年(1868)榎本武揚、土方歳三らが率いる旧徳川幕府軍の手によって落城したが、明治2年に官軍が奪取。明治6年に取り壊しと建物の転用が命じられ、残った天守も昭和24年に惜しくも焼失した。
 幕命で築城された松前城が、旧幕府軍の攻撃により落城するというのは歴史の皮肉といわざるをえない。
一口話  松前藩はアイヌとの交易品を全国に流通させたが、その陰でアイヌは過酷な収奪に苦しめられた。このため、アイヌは幾度となく蜂起を繰り返したが、その中でも最大のものは寛文9年(1669)日高から松前に向けて兵を挙げた「シャクシャインの戦い」である。
 松前藩は津軽藩・南部藩・秋田藩に援軍を求めて日高まで押し戻し、大酋長シャクシャインは「和睦の宴」の席で惨殺され、部下とともに耳をそがれた。蝦夷地におけるアイヌ最大の悲劇で、誠に哀れというほかはない。
見どころ  松前城は北海道の西南端の松前湾に面する台地上に築かれ、本丸御門と天守海防を重視した縄張りの城で、2万余坪という大規模な城郭であった。
 現在、松前城跡は国の史跡で、松前公園として整備されている。園内には約80種、3千本の桜が植えられ、北海道隋一の桜の名所でもある。
 闇の夜の井戸かつて城内へ通じる坂は馬出口・天神坂・馬坂・湯殿沢口、新坂の5ヶ所だったが、今では天神坂か馬坂から三の丸跡へ行くのが一般的。
 天神坂は細いながらも風情ある石段が続き、三の丸跡への入口には平成14年に復元された天神坂門が建つ。
 馬坂はかつて藩士が登城した坂というだけに幅広い登城道で、天然の堀であった大松前川に天神坂門(復元)架かる橋から登って行く。
 松前慶広の四男数馬介由広が大坂冬の陣が起きる直前、慶広の意に反して豊臣方につこうとしたため、家臣に斬り殺された場所ともいわれることから、かつては数馬坂と呼ばれていたが、縮まって馬坂と呼ばれるようになったと伝えられている。
 馬外堀坂の途中に徽典館跡がある。文政5年(1822)に創設された藩校だったが、戊辰戦争で焼失した。
 馬坂を登って行くと三の丸跡で、砲台が配備されていた台場や鉄砲置場、番所などの土台や柵が近年の復元工事によって整備された。番所跡の前には松前城の縮小模型がある。部分的に残る外堀と復元された城壁はなかなかのもの。
 外堀に架かる橋を渡ると平成12年に復元された搦手二の門が建ち、ここをくぐると二の丸跡天守最上階から眺める松前湾。二の丸跡には最も重要な櫓であった二重太鼓櫓跡や隅櫓跡などの土台が整備されている。二重太鼓櫓跡から望む松前湾の風景は美しい。
 本丸跡には昭和35年に三層の天守が復元され、内部は松前城資料館となっている。松前藩の御用船であった長者丸の資料や藩主の甲冑などのほか、アイヌ民族資料が展示され興味深い。
 復元天守天守に付随する本丸御門は戦災を免れた築城当時の建物。実に堂々とした櫓門で、国の重要文化財に指定されている。
 本丸御門のすぐ近くに本丸表御殿玄関が残る。昭和57年まで松城小学校の正面玄関として利用されてきたもの。
 本丸跡北東部には部分的に内堀が残り、内堀越しに眺める天守の姿は松前城の代表的な景観といえる。
 本丸跡の西側に「耳塚」と「闇の夜の井戸」が残る。耳塚はシャクシャインの戦いの際、首の代わりに戦乱に敗れたアイヌの人たちの耳をそぎとって埋めたところと伝えられ、松前藩とアイヌとの悲惨な抗争の歴史に思いを馳せずにはいられない。
 闇の夜の井戸は松前藩の忠臣が生き埋めにされたという伝説が月琴堀ある井戸。現在の井戸は移されたもので、かつては本丸御門の前にあった。
 本丸跡の北西部に残る月琴堀は外堀の跡で、今では草木が生い茂っているが、かなりの深さだったことが想像できる。
 阿吽寺に移築された堀上門本丸跡の北側に建つ松前神社は武田信広を祀った神社で、境内にある臥龍梅は徳川三代将軍家光から松前家七世光広が拝領したという名木。
 寺町にある阿吽寺の山門は松前城の堀上門を移築したもので、本丸御門、本丸表御殿玄関とともに貴重な遺構である。
 城跡内からは津軽海峡と日本海が一望でき、三の丸の砲台跡とともに松前城がいかに海防を重視した城であったことが実感できる。
周辺案内  松前の歴史を感じさせる静かなたたずまいの松前家墓所寺町一帯をゆっくりと散策したい。国指定史跡の松龍雲院本堂(重要文化財)前家墓所は松前藩の始祖・武田信広から19代にわたる歴代藩主やその家族が眠る墓所で、古木に囲まれて55基の墓碑が静かに並んでいる。キリシタン信仰と関係がある織部灯籠やT字型が刻まれた墓もあり興味深い。
 龍雲院は寛永2年(1625)に創建された曹洞宗の寺院で、奇跡的にも戊辰戦争の戦火を免れ、江戸時代そのままの伽藍が残る。本法源寺山門(重要文化財)堂と庫裏は天保13年(1842)の建築で、国の重要文化財。
 同白神岬じく曹洞宗の法源寺は延徳2年(1409)奥尻から大館に移された古刹。本堂や庫裏は戊辰戦争で焼失したが、江戸時代中期の山門は焼失を免れ、北海道内最古の建造物として国の重要文化財に指定されている。
 松前から東へ7kmほど海岸線を行くと松前半島の先端である白神岬に至る。北海道最南端の地で、津軽海峡と日本海が一望できる景勝地。

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