吉田郡山城
山全体を城郭とし中国を制覇した毛利氏の本拠地
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| 歴 史 | 吉田郡山城は南北朝時代の建武3年(1336)に毛利時親が標高390mの郡山東南麓に築城したのが始まりといわれている。毛利氏は相模国毛利荘の出で、鎌倉幕府の政所別当として有名な大江広元の子孫にあたる名族である。 毛利氏が一躍脚光をあびるのは戦国時代に入って、毛利時親の11代後にあたる毛利元就からである。大永3年(1523)毛利氏の家督を継いだ毛利元就は郡山城の大拡張工事に着手、郡山全域を城郭とし、今日見られるような大規模な山城を築いた。 毛利元就は天文9年(1540)郡山合戦で尼子氏の大軍を撃退、南北朝時代以来の名族である大内氏が天文20年(1551)家臣である陶晴賢(すえはるかた)の反乱で瓦解すると、その陶晴賢を厳島合戦で討ち破った。続いて永禄7年(1564)毛利元就は大軍を率いて尼子義久の居城である月山富田城を完全包囲し、1年半にわたる攻防の末、永禄9年(1566)ついに尼子氏を滅亡させた。さらに元就は小早川、吉川両家と縁組するなど中国地方を制覇し、8ヵ国の太守になった。 以後、吉田郡山城は毛利元就の嫡子隆元、隆元の嫡子輝元へと受け継がれるが、毛利輝元が120万国の大名としては山間部の郡山城では不便であったため平野部への進出を図り、天正17年(1589)から広島城の築城に着工、天正19年(1591)に広島城に移るとともに、毛利氏歴代256年間の居城であった吉田郡山城は廃城となった。 |
| 一口話 | 毛利元就は弘治3年(1557)隆元、元春、隆景の3人の子に毛利家を維持してゆくための14ヵ条からなる「三子教訓状」を与えている。元春は吉川家、隆景は小早川家を継いだが、3人とも元就の教訓を良く守って団結し、毛利氏の発展に大きな役割を果たした。 元就が死の床にあって諭したとされる「三矢の訓え」はとりわけ有名である。一つの矢では折れやすいが、三つの矢を束ねるとなかなか折れないというもので、毛利、吉川、小早川の三氏の団結を訴えた話である。この逸話は史実かどうか定かではないが、いかにも優れた政治家である毛利元就の遺言にふさわしいものといえるだろう。 |
| 見どころ | 吉田郡山城は可愛(えな)川に多治比川が合流する北岸に位置する標高390mの郡山に築かれた城で、山頂に本丸と二の丸、一段下に三の丸を構え、放射線状に延びる尾根には階段状に100以上の曲輪を配するなど、郡山全体を城郭化した大規模な山城であった。 現在、吉田郡山城跡は国の史跡に指定され、麓の駐車場より 本丸跡まで徒歩40分で登ることが出来る。約20分ほど登って行くと毛利元就の墓を中心に毛利氏代々の墓があり、墓に向かって「百万一心」の石碑が立っている。毛利元就が吉田郡山城を大拡張した際、家臣が旅の巡礼を人柱にしようとしたのを退け、人柱の代わりに「百万一心」と刻んだ石を本丸の石垣の中に埋めたという。百は一日、万は一力を表わして「一日一力一心」と読み、「日を同じくし力を同じくし心を同じくする」という意味で、城を固めるには一致団結こそが大切だという毛利元就の家訓である。 ここからさらに20分ほど登れば本丸跡・二の丸跡・三の丸跡などに行くことが出来る。土塁や空堀が残るだけだが、山全体が一大城郭であったことが良くうかがえる。 |
| 周辺案内 | 郡山山麓にある吉田町歴史民俗資料館は毛利元就をはじめとする毛利氏ゆかりの数々の資料を展示、戦国時代を中心に吉田町の歴史を紹介し、毛利元就に興味のある人には見ごたえのある資料館である。 吉田町から少し足を伸ばして三次市のみよし風土記の丘を訪ねたい。全国で数ある風土記の丘の中でも良く整備された史跡公園で、七ツ塚古墳群を中心に、復元された古代住居や、江戸時代の農家の姿を良くとどめている旧真野家住宅(重要文化財)などがあり、隣接して広島県立歴史民俗資料館が建っている。 また、三次市には三次藩浅野家の菩提寺である鳳源寺がある。境内には元禄14年(1701)江戸城で刃傷に及んだ浅野内匠頭長矩の妻である阿久里(瑤泉院)遺髪塔のほか、阿久里が赤穂浅野家に嫁ぐ際、迎えにきた大石内蔵助が手植えしたという枝垂桜があり、義士堂には浅野内匠頭と瑤泉院、そして赤穂浪士四十七士の木像を安置している。 |