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萩 城

幕末に表舞台へ登場した毛利氏の牙城

 所在地:山口県萩市堀内
 別  称:指月(しづき)城
 築城年:慶長9年(1604)
 築城者:毛利輝元
 形  式:平山城
 遺  構:石垣、天守台、堀
      復元土塀

 地図 
石垣と堀
歴 史  慶長5年(1600)天下分け目の関ケ原の合戦に際して、天守台広島城主毛利輝元(毛利元就の孫)は石田三成方の西軍の総大将となったが、徳川家康方の東軍に敗れたため中国8ヵ国120万石を没収され、輝元の子毛利秀就に対して、改めて長門・周防36万石が与えられた。しかし、秀就はわずか5歳だったので隠居の身となった毛利輝元が実質上の領主として采配を振るった。
 毛利輝元は領内の防府、山口、萩の3ヵ所を築城の候補地にあげたが、徳川幕府の裁定は所領の外れにあたる萩の地で、外様大名中の雄藩毛利氏を山陰の僻遠地に封じ込めた。
 天守台上と指月山築城に望ましい阿武川河口のデルタ地帯は未開の地であったが、輝元は満潮時に海に沈んでしまう土地を埋め立てて指月山を陸続きとさせ、指月山山頂に詰の城、山麓には本城とする萩城を築き上げた。
 慶長9年(1604)に着工、当時の建築技術を駆使し、総力をあげて築城工事が行なわれたが、家臣や領民の負担も大きく、完成したのは4年後の慶長13年(1608)であった。
 三方を堀と石垣で囲んだ本丸に五層の天守を築き、移築花江茶亭南東に二の丸、さらに堀と石垣の外側に上級家臣の屋敷が建ち並ぶ三の丸を設け、デルタ地帯一帯に城下町を造成。指月山山頂の詰の城は二段の曲輪からなり、陸と海を監視するため2基の二層矢倉と5基の単層矢倉が築かれていたという。
 毛利氏は萩城を本城とし、長府・徳山・清末の3支藩と岩国城の吉川氏を領国内に配したが、元和元年(1615)の一国一城令で萩城を残して、他は表面上廃城となった。
 萩城が歴史の表舞台に登場するのは幕末になってからである。長州藩は尊皇攘夷派と旧守派が鋭く対立、尊皇攘夷派に担ぎ上げられた十三代藩復元二の丸土塀主毛利敬親(たかちか)は萩城では尊皇攘夷を実行できないと判断して、文久3年(1863)徳川幕府に無断で本拠地を山口に移した。
 元治元年(1864)長州の尊皇攘夷派が「禁門の変」を引き起こしたため、徳川幕府は第一次長州征討に乗り出し、毛利敬親は萩城に戻されて謹慎の身となる。この時、旧守派が萩城を本拠に独立政府を樹立するが、長府で倒幕の兵を挙げた高杉晋作率いる奇兵隊に敗れて萩城は廃城。毛利敬親は再び山口に戻り、長州藩は坂本竜馬の斡旋で薩摩藩と手を結んで倒幕に成功、薩長を中心にした明治新政府を樹立する。
一口話  萩は明治維新発祥の地といえる。倒幕を唱える急進派の藩士たちに強い影響を与えたのが吉田松蔭。松蔭は海外事情を知るべく下田沖でアメリカ艦船に乗り込み密行を企てたため萩に幽閉される。
 吉田松蔭は萩での幽閉生活中に松下村塾で新時代に即した独自の考えを塾生たちに教えた。松下村塾での活動はわずか3年足らずであったが、高杉晋作、久坂玄瑞らをはじめ、維新後に明治政府を担った伊藤博文や井上馨など優れた人材を輩出した。陸軍卿山県有朋も松下村塾で学んだと称したほど。
 その松蔭も井伊直弼の安政の大獄に連座して江戸で刑死。29歳の短い生涯であった。
見どころ  萩城は阿武川河口三角州の西北端、かつては小島であっ旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(重要文化財)た標高143mの日本海に面した指月山麓に築かれた城であった。萩城跡は国の史跡で、本丸跡が指月公園として整備されている。
 指月公園の入口近くに旧厚狭(あさ)毛利家萩屋敷長屋が残っている。厚狭毛利家は毛利元就の五男元秋を始祖とする毛利氏の一門。萩屋敷は萩城大手門の南100mの要地に建てられ、今に残る長屋は51mにも及ぶ長大なもので国の重要文化財に指定されている。
 旧厚狭毛利家萩屋敷長屋から北へ行くと萩城跡入口。堀に架かる石橋を渡ると本丸門跡で、ここからが指月公園となっている。移築梨羽家茶室堀は本丸跡南側と東側に一部残るだけだが、堀越しに眺める石垣と指月山の山容は実に美しい。
 指月山頂の詰丸跡へは20分ほどで登ることができ、石垣や矢倉跡、水溜めが残り、昭和41年に城壁の一部が復元されている。
 本丸跡南西には石垣に連なって天守台が残る。かつては最上層に勾欄をめぐらした桃山様式の白亜の五層大天守が築かれていた。その姿を古写真で見ると山陰の僻地に追いやられたとはいえ毛利氏の心意気が伝わってくる。天守台の上からは堀旧福原家書院と石垣をはじめ、本丸跡が一望できる。
 園内には花江茶亭、梨羽家茶室、旧福原家書院が建っている。花江茶亭は十三代藩主毛利敬親の別邸にあった茶室を明治22年頃に移築したもので、幕末の頃、敬親が茶事のことよせて家臣たちと国事を画策したところという。
 「煤払いの茶室」とも呼ばれる梨羽家茶室は東郊中津江にあった寄組士梨羽家(3千2百石)の別邸茶室で、城内煤払いの際に藩主が一時居館を出てここで休憩したことからこの名があり、江戸時代中期の花月楼形式の茶室として貴重なもの。
 天守台上から眺める石垣と堀旧福原家書院は萩藩永代家老福原家(1万1千余石)の萩邸宅の書院で、明治15年に移築された。天明年間(1781〜88)頃に建てられたものといわれ、上級武士の生活様式が偲ばれる。
 園内には藩主休息の庭園であった東園もある。二代藩主毛利綱広は園内に稲田を設け自ら耕したという。現在の庭園は大正14年に復元修理されたものだが雅趣に富む。
 東園から東に行くと二の丸跡で、ここに昭和40年に一部土塀が復元された。土塀の東側は日本海の波が打ち寄せる菊ヶ浜で、この海岸に立って日本海を眺めるとき、この辺境の地に城を築かざるを得なかった毛利輝元の無念のほどが察しられる。
周辺案内  指月公園にほど近い武家屋敷跡は長々と縦横武家屋敷跡に土塀が続き、散策すれば江戸時代にタイムスリップした感じがする。土塀と夏みかんのコントラストは美しく、萩の風物詩になっている。
 「萩城下町」と称する一角には菊屋横丁、江戸屋横丁と呼ばれる小路があり、木戸孝允旧宅や高杉晋作誕生の家が残っている。この一角に大きな「菊屋家住宅」がある。
 菊屋家は毛利輝元時代からの萩藩の御用商人で、藩の賓客の宿泊所でもあり、全国でも最も古い町屋の一つに数えられ、主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場は国の重要文化財。菊屋家に伝わる松下村塾美術品や民具・古書なども展示しており、必見の価値がある。
 吉田松蔭を祀る松蔭神社境内には松下村塾が残っている。8畳と10畳半の部屋に土間付きの簡素な平屋だが、ここから明治維新の原動力になった多くの人材が輩出したことを思うと感慨もひとしお。この近くにある伊藤博文の生家は質素そのもので、伊藤博文が武士ともいえない身分の出だったことがわかる。
 松蔭神社からほど近いところに毛利家の菩提寺である東光寺がある。広い境内には総門、東光寺三門(重要文化財)三門、大雄宝殿、鐘楼(いずれも国の重要文化財)などが建ち、境内奥にある毛利家三代以降の奇数の藩主の墓所は国の史跡に指定され、その墓前に家臣たちが寄進した約500もの石灯籠が立ち並ぶ姿は壮観。
 東光寺に対して大照院には毛利家二代から十二代までの偶数藩主の墓所があり、墓前には家臣が寄進した石灯籠約600が立っている。東光寺に比べると観光客も少なく、少し荒れ果てているが、石灯籠の姿は見事というほかはない。
 ちなみに初代藩主毛利輝元は天樹院墓所に夫人、一人の殉死者とともに静かに眠っている。

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