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備中高松城

秀吉が水攻めにして中国大返しを演じた城

 所在地:岡山県岡山市高松
 築城年:永禄12年(1569)頃
 築城者:石川久弐
 形  式:平城
 遺  構:土塁、堀

 地図 
本丸跡
歴 史  備中高松城は備中松山城主の三村氏が備前の宇喜多氏清水宗治辞世の歌碑に対抗して永禄12年(1569)頃に重臣の石川久弐に築城させたと伝えられる。
 天正3年(1575)備中松山城主の三村元親が毛利氏に滅ぼされると、備中高松城の石川久弐も追放され、毛利氏に属した清水宗治が高松城主となった。
 天正10年(1582)4月、織田信長の命を受けた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は3万の大軍を率いて備中南東部に侵入、毛利方の諸城を次々と攻略して高松城を包囲した。
 高松城は三方を山で囲まれ、その進路は深田や沼地で人馬の進みがたい要害の城であったため持久戦となる。高松城主清水宗治は5千余りの将兵で籠城して毛利軍の援軍を待った。一方、蛙ケ鼻築堤跡秀吉は毛利軍が出陣したとの報せを受けると、安土城の信長に使者を派遣し、信長自らが出陣するよう強く要請。
 秀吉は高松城を兵糧攻めにするため、軍師黒田官兵衛の策を取り入れて「水攻め」にすることを決行。高さ7m、長さ3kmにも及ぶ堤をわずか12日間で完成させ、雨で増水した足守川の水を流し込んだためたちまちにして大湖水ができ、高松城は孤立した。
 天正10年(1582)6月2日未明、中国攻めに出陣するため京都本能寺を宿所としていた織田信長は明智光秀の謀反で自刃。この本能寺の変をいち早く知った秀吉は信長の死妙玄寺境内に建つ清水宗治自刃の阯の碑を固く秘めて、急遽毛利方の軍師安国寺恵瓊(えけい)を招き「本日中に講和すれば宗治の首級だけで城兵の命は助ける」という条件で和議を成立させ、高松城主清水宗治は自刃。
 秀吉は明智光秀を討つべく大雨の中、備中高松城から姫路城、尼崎城、さらに決戦場となる山崎へと昼夜兼行で大急ぎで引き返した。世に有名な「秀吉の中国大返し」である。
 清水宗治亡き後、備中高松城には岡山城主宇喜多秀家の重臣花房正成が入城。慶長5年(1600)の関ケ原の合戦後は徳川家康の旗本となった花房職之の居城となったが、徳川幕府の基盤が固まると花房氏は別地に陣屋を構え、備中高松城は廃城となった。
一口話  秀吉が清水宗治に和議を持ちかけた時、毛利の援軍は高松城近くにまで到来していた。しかし時すでに遅く、城内では兵糧が尽きていたので、宗治は「主家の安泰と部下5千名、さらに農民の命が助かるなら切腹する」と自刃を承諾。湖水に浮かべた小舟の中で秀吉から贈られた酒肴で最後の宴を張り、両軍が見守るなか、見事に切腹を遂げた。時に天正10年(1582)6月4日のことである。
 「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の苔に残して」が清水宗治の辞世の歌である。宗治は義をつらぬいた武将として後世にまでその名を残した。
見どころ  高松城址公園備中高松城は小さな城だが、史上稀な水攻めにされた城として、歴史通の人なら誰もが知っている有名な城である。
 高松城は沼沢地に臨む平城(沼城)で、石垣を用いず、方形の本丸を中心に、堀を隔てて南に二の丸、さらに三の丸と家中屋敷がコの字型に並ぶ土壇だけで築かれた「土城」であった。
 現在、高松城跡は国の史跡に指定され、周囲の水田から約2mの台地上にある本丸跡と二の丸跡の一部が城址公園として整備されている。本丸跡を囲む清水宗治の首塚ように沼の名残りの堀が一部残っており、この城がかつては沼城だったことがうかがえる。
 本丸跡には清水宗治の辞世の歌を刻んだ歌碑と首塚があり、宗治自刃の懐剣と最後の酒宴を張った盃も埋葬されているという。
 園内にある高松城址公園資料館には、秀吉による高松城水攻めの様子などの詳しい資料が展示されている。
 珍しいのは本丸跡南側の「宗治蓮」。往時は蓮池と呼ばれていたが、400年を経た今日でも地下に眠っていた蓮が育ち、高松城跡を訪れる人々の目宗治蓮を奪う。水に守られ水に散った清水宗治と蓮池との関係に胸を打たれる思いがする。
 公園東側の妙玄寺の境内に「清水宗治自刃の阯」の碑が建っている。宗治の小舟を追って二人が「一足先に三途の川でお待ち申します」と互いに刺し違えて殉死したところでもあり、「ごうやぶ」と呼ばれ、かつては三の丸の総門のわきであった。
 高松城跡から東南へ2kmほどの所に「蛙ケ鼻(かわずがはな)築堤跡」が残っている。わずか数mの土塁が水田に突き出ているだけだが、秀吉が水攻めの際に築いた堤の一部で現存する唯一の貴重な遺構といえる。
周辺案内  吉備路を散策すれば古代史の息吹を感じることができる。国分寺跡まず造山(つくりやま)古墳は全長350m、高さ24mの大規模な前方後円墳。吉備国全域に君臨した大首長の墓といわれ、その規模は全国でも有数のもので、吉備地方が大和政権に匹敵する力を持っていたことを物語る。
 造山古墳一帯は吉備風土記の丘として整備され、江戸時代に再建された五重塔が建つ国分寺吉備津神社・本殿(国宝)跡や、国分尼寺跡、郷土館などがあり、4月下旬にはレンゲの花が咲き乱れ、多くの人が訪れる。
 吉備津神社は三備(備前・備中・備後)の一宮で、大和朝廷から派遣され吉備国を平定した吉備津彦命(桃太郎のモデル)を祀る。室町時代の応永32年(1425)に完成した本殿は日本で二番目の規模を誇り、拝殿とともに国宝に指定されている。本殿西側より緩やかな直線を描いて約400mも回廊が続き、その途中にお釜殿がある。湯を焚き、その鳴動で吉凶を占う「鳴釜の神事」は上田秋成の『雨月物語』で有名。

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